<劇評>
[2004.8/19〜9/2 ビーブベースメントシアター 主催:ウェルパフォーミングアーツマネージメント]
この夏、もっとも熱く駆け抜けたドラマ

巷ではアテネ五輪に沸いている中、この地下の一角だけは別世界だった。私の先入観の「一人芝居」の観念はひとたまりもなく蹴散かされた。何という男だ。敢えて役者といはいうまい。もはや、その範疇を脱している。本人曰く「エンゲキカケー」と距離をおいている理由が納得できた。音楽担当の只野展也(とてもよく高山と切り結んでいた)が書いている通り「芝居のようなLIVE」なのだ。本人自ら「シンガーソングライターのようなアクターディレクトライター」の根拠もわかった。
その1
音楽機器といっしょに只野氏をステージに登場させ、照明もあて、演奏させていて、高山の演技に反応(表情も含めて)させ、何度か訪れるクライマックスでは伯仲の合戦を挑ませる演出が活かされている。中でも、人間によるねずみの惨殺シーンは圧巻であった。爆発する悲鳴ともとれる音楽と、殺されるねずみの絶叫が耳をろうする余り無声にむまがう表情とが拮抗する。今も目に焼き付いている。耳に響いている。卓越した演技と演出である。
その2
演劇の常識を破っている。複数の役のかけ合いを客に背を向けてやる。暗転の闇で、ささやき叫びを聞かせ、音楽まで参入する場面をつくる。
その3
高山の演技の重層性である。スピーディな展開の中で、社会批判、役の微妙な心理描写、その役そのものの演技、それを演ずる高山自身への嘲りまで、やってのける。
その4
多彩なキャラクターの中に、歴史上の人物名や演劇界の有名人名や芸人名をおもしろくもじり登場させ、風刺をこめて興味深く描いてみせた。
その5
高山は演劇(マイム、声、ものまね)や寄席芸の勉強をよくしていて、その蓄えと磨き上げが玄人の域である。これらの武器を用いて勇敢にも「一人芝居」にチャレンジした理由は、やむにやまれぬ内容があったからだと思う。8年前初演のものが、今、むしろ”今日的”であるのは、そこに取り上げられる“戦争、テロ、いじめ、差別”等々であるから。どれをとっても大きい。深刻でなかなかなくならない。高山のユニークさは、それらを、人間が最も唾棄すべき存在、ねずみとゴキブリに仮託して、傲慢な人間へ、もっとも低い視点から仰角で逆襲してみせたところだ。高山の眼の演技が魅力的だった。 |