トムプロジェクト

2017/02/20
【第923回】

昨年の今日、母は97歳で旅立った。今日は一周忌である...97年の生涯は、まさしく波瀾万丈である。佐賀で生まれ、東京で少女時代を過ごし、佐賀武雄高女を卒業し教師になるが、朝鮮半島に渡り岡田旅館を経営していた長男敏雄と結婚。旅館の女将跡継ぎ修行中に敗戦、8月9日にソ連軍が侵入し地獄図を見る日々の中、1946年2月に奇跡的に帰国。この月においらを産んだわけである。おいらは十月十日、お腹の中でソ連軍の野蛮な行為、侵略された怒りを晴らす朝鮮、中国の人達の復讐。人間のあさましさを感じ続けていたわけである...この経験から母がおいらに何度も言い続けた言葉が「戦争は勝っても、負けても惨めである...戦争だけはどんなことがあってもしたらいかん!」終戦後も母の戦いは始まる...父が早く亡くなり、5人の子供を一人育て上げたのである。今でも覚えてるな...学校を終え新聞配達中、母が荒くれ男たちに混じって道路工事をしていた姿。ほうかむりした母の顔は日焼けしており垂れる汗を拭う暇なく砂利を黙々と運んでいた。おいらが上京し、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を耳にしたときには、おいらは母の姿と重なり号泣した記憶がある。昼間の仕事を終えた後も家事を済ませ、夜は遅くまで筆耕(ガリ版印刷、原稿を金属のヤスリの様な板を下敷きにして、蝋のようなものが塗ってある紙に鉄筆でガリガリ書いていた。)おいらの枕元で、明け方近くまでガリガリとした音がして寝れんかったのだが、母が子を思う辛苦にただただ涙した。そこで、おいらは母の負担を少しでも減らしてあげたい一心で、いくつものバイトをやり自立の道を選択したのである。上京したときも、おいらのわがままを許してくれた母に感謝...大学出ても風来坊人生を彷徨ってるおいらに小言も言わず、時折来る母の達筆な手紙には「身体だけは気をつけて、美味しいもん食べないかんよ...」幾つになっても、おいらにとっては逞しく知的で優しい母であった。子どもたちが成人した途端、これまで出来なかった絵画、短歌、手芸などなど多種にわたり趣味に没頭する日々を取り戻し活き活きしていた。おいらも何とか親孝行に間に合い、温泉に連れて行くと嬉しそうな顔をしていました。85歳に脳梗塞で倒れ、身体は不自由であったが向上心は枯れることなく最後まで凛とした姿で生涯を終えることが出来ました。

おふくろ!おいらももうすぐ71歳になります。70代のおふくろは少女の様に活き活きしていたね...おいらも負けずに少年のような気持ちで日々過ごしています。おふくろの年齢まで生きられるかどうかは分からんけど、おふくろの子であることを誇りに思い、最後まで愚痴を零さず、己磨きを怠ることなく、世のため人のために生ききりますばい...

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